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大貫昭彦連載寄稿
<*海原に浮かぶ寺 60年ほど前の大船町は、一面の水田地帯でした。縄文、弥生の頃、この一帯は海の中にありました。横浜方面からバスに揺られてくると、青畳の向こうに六国見山が浮かび、鎌倉に着いたなという思いに浸ったものです。
そんな景色の中に、定規で引いたような松並木が一本走っていました。先には茅葺の山門と大銀杏が茂っていました。粟(ぞく)船山(せんざん)常楽寺です。松並木は昔の話になりましたが、門の中は変わらぬ風景を残しています。山門を潜ると、右に庫裏と本堂が並び、正面奥に阿弥陀三尊を祀る仏殿があります。仏殿の裏には、常楽寺を開いた北条泰時の墓などがあり、仏殿左には茅葺の文殊堂、右に無熱池と呼ばれる池があります。
*大銀杏の寺 御神木ともいうべき銀杏は、仏殿前に立っています。姿が異様で、ただならぬ雰囲気を湛えています。中心の幹は朽ち、ひこばえが林立し、森のような景観をつくっています。樹齢8百年と伝え、度々の落雷や強風に耐えてきましたが、1938年(昭和13)の台風で倒れ、それから80年、現在の姿になったのです。鶴岡八幡宮の健在な時の隠れ銀杏や荏柄天神社の天神降臨の銀杏のように堂々たる幹立ではないけれども、威風堂々たる巨木です。
*江島弁天と銀杏 この木には、こんな話が伝わります。寺が開かれて間もなく、鎌倉に禅を伝えた蘭渓道隆禅師が滞在しました。建長寺の完成を待っていたのですが、中国から渡来した名僧の評判は広がり、江島弁天の耳にも達しました。
弁天は、歓迎の意を表して乙(おと)護(ご)童子(どうじ)という世話係を派遣しました。ところが、あまりに好男子だったので、高徳の僧の世話役には相応しくないと非難されました。禅師と童子の仲を疑う者まで現れる始末です。童子は反発し、わが正体は弁天である、姿を見よと巨大な龍神となって現れ、銀杏を七回り半巻き、やがて無熱池に沈みました。
*龍神あらわる! 霊感鋭い大根会のメンバーが、どんな反応を見せるか、興味津津同行しました。参道で一通り寺の歴史や伝説を紹介して山門を潜りました。すぐに反響があり、「空気が改まった」「体が軽くなった」などの声が上がりました。訪ねたのは葉桜の季節、よく晴れた日でしたから、さもありなんという気分でその声をメモしました。
次にみんなの目は、大銀杏に集りました。パワースポットは銀杏の北、文殊堂側でありました。いつも敏感に反応する女性の撮った写真には、光の帯が写りました。龍神伝説と符合するような写真です。
*文殊堂の三つ石 パワースポットは文殊堂近くにもありました。手水鉢と堂の前にある三つの石の辺りです。手水鉢の所では風を感じるのに堂の前は無風。優しい空気が漂っています。
「俗界と聖域のバリアかな?」大根秀行師のつぶやきには説得力があります。「おっ! 何だか温かいぞ」40代の男性が声を上げました。「この石もすごい。手がジリジリしますよ」「堂に近い方から山、陸、海の石だ」「陸の石のパワーが一番強い」「山の石は温かい、陸の石はジンジンする」「血行が良くなる感じですね」みんな口々に感じたままを言い合います。
不思議な現象は、どこから来るのか。大根師が言われるように、本来その土地が持っている力か。後天的に蓄積された自然や人の営みに由来する力か。答えは見つかりません。 パワースポットは、木曽義仲の子義高が眠る裏山にも存在するようです。特に粟船稲荷を祀る祠の前が強力なようです。
*古代の離山 4月の大根会は、大船駅から離山に向って出発しました。駅前商店街の路地を何度も曲り、大船行政センターの前で少休止。
辺りは商店が並ぶ賑やかな町ですが、昭和も40年代までは水田茫々たる風景でした。当時は、台風が来る度に駅の改札口まで水が押し寄せる町でした。ですから開発が始まる関東大震災直前まで離山は大海原に浮かぶ島のように見えたと言われます。
江戸時代の「鎌倉攬勝考」は、古代人の古墳だったに違いないと記しています。大船の首長が、わが支配地を一望する離山に眠らせよと命じる。それで古墳を築いた。想像をたくましくすると、古代の離山が浮かびます。
「新編相模国風土記稿」は、離山は三つの峰に分かれると記しています。北から腰山、長山、地蔵山です。離山の名はこれに由来するのですが、全体の形から柄杓山と呼ぶ説もあります。中世考古学の先駆者と評される大三輪龍彦先生は、柄杓山と離山が同じ山なら前方後円墳だったかもしれないと、本紙(1988年6月号)の「知られざる鎌倉」に書かれています。
*その後の離山 梶原景時が城にしたとか、新田義貞が作戦会議を開いたとか、伝説に近い話がありますが、鎌倉公方の兵と京都将軍方の今川氏が戦ったことは確かなようです。離山は、鎌倉の北の入口ですから、度々戦いの場になったことでしよう。
開発される前、山上には13もの塚があったそうです。みな犠牲者の供養にと造られたものでしょう。現在の離山は、古代、中世とはかけ離れた姿をしています。
まず、大正から昭和にかけて腰山と長山が土地開発のために、太平洋戦争の時には地蔵山が軍事施設の建設のために崩されました。さらに現在は、すっかり住宅地に変わっています。
*道端のパワースポット しかし、離山の地霊は消えてはいません。大船行政センターで一息ついた一行は、少し先の信号を渡って大船3丁目の道を行きました。道は離山の西の麓を行く中道と呼ばれる古道で、北鎌倉の小袋谷から大船、笠間を経て戸塚に通じています。
高台に並ぶ住宅を見上げながら歩いていると、大根師が急に道端で立ち止りました。霊力を感じたというのです。メンバーが示された場所に立って手を合せます。40代の女性に感想を聞くと、下から力が上がってくる感じと言いました。30代の女性は、足の裏が温かい、70代の女性は、パワースポットの近くでは頭がズキズキしたが、少し歩いたら治ったという感想です。こうした反応をどう解釈したらいいか、不思議パワーに鈍感な者には理解しがたいことです。すぐ先には離山富士見地蔵堂があるのです。パワーはそちらにあるはずだと思っていたので、狐につままれた気分でした。
*パワーの源泉 地蔵堂は、地蔵山の北の端にあります。堂の前には「離山富士見地蔵尊」の碑が立ち、石の地蔵菩薩が祠の中に座っています。堂の裏には中世の五輪塔が五つ並んでいます。離山合戦で命を落した兵たちの供養塔でしょう。
堂の前にある説明を読むと、地蔵尊は昭和13年山から下ろされ、昭和58年西山家が屋敷の一部を提供して安置したとあります。山の上では富士山の見える西に向いて座っていたのでしょう。道端のパワーは恐らく地蔵尊が座っていた地が発しているものでしょう。
*四境祭の地 円覚寺のある丘の北に八雲神社があります。室町時代、関東管領の上杉氏が創建した社ですが、神社になる前から祈りやお祓いをする特別な場所でした。町に疫病が流行ったりすると、鎌倉幕府は、陰陽師に病魔退散の四角四境祭を行なうよう命じました。四角は幕府の東西南北の四隅で、四境は町はずれの地です。多くの場合、東は六浦、南は小坪、西は稲村ヶ崎、北は山内で、ここに祭檀を設けて儀式が行なわれました。山内は八雲神社の地です。
*パワースポットの条件 神社へは駅の下りホームの裏から上る参道がありますが、長くて急な石段です。円覚寺や洞門山トンネルから行くことをお勧めします。境内に立つと北鎌倉の町の風景が広がり、疲れを忘れさせます。目の下には駅のホームが横たわり、その向こうに台山の緑に抱かれた家並みが上品な風景をつくっています。アクセントは中心に北鎌倉女子学園の校舎、左にはふっくらした東慶寺の宝蔵の瓦屋根、右手には光照寺の青い屋根がそそり立っています。冬晴れの日なら遠く雪の富士山が望めます。地霊やパワーの潜む場所には共通点があるように思います。心に届くものがある。例えば森が豊かである。巨木がどんと鎮座している。歳月を経た社殿が悠久の歴史を醸している。社殿が新しくても地元の人に大切にされている様子が見える。掃除が行き届いて清らかである。八雲神社のようにいい景色の中にあることもパワーの地の条件の一つと思われます。蛇足ですが、負のパワーはこの逆の場に潜んでいる…。
*都市の守り神 八雲神社の祭神は、疫病退散に威力を発揮するという素蓋鳴尊です。大都市京都を守る祇園神社の神です。山ノ内は建長寺、円覚寺など禅寺が並ぶ寺町ですが、足利公方の時代になると、馬の市なども開かれる庶民暮らす町にもなり、さらに繁栄しました。それで都市を守る神社が必要になったのでしょう。
境内に入ると、石造の鳥居が立ち、奥に彫り物の豊かな社殿が見えます。左右に石灯籠と天水桶が並び丁寧な構えです。大根師が指示したパワーの出ている所は社殿の前、やや左に寄った所でした。最初の社殿はこの位置にあったのかもしれません。
*陰陽道の君主「安倍晴明」 境内の北側にある台地にも鳥居や修験道の石碑が立っています。大根師の言では、アースパワーは石碑の下にある石からも出ているそうです。 鳥居の下には、晴明石が横たわっています。しめ縄を張り、「安倍晴明神君」の札が立っています。晴明石については前回紹介しました。以前は十王堂橋近くの道路にあって、鎌倉の内外を分ける目印、また魔物の侵入を防ぐ呪いの石とされてきましたが、60年ほど前、交通の妨げになるとして移されたのでした。
安倍晴明は平安時代の陰陽師で、「今昔物語集」に前世と未来を見抜く力を持ち、式神という鬼を使ってライバルとの祈り合戦に勝った話が載っています。藤原道長の危機を救った人物としても知られています。
*晴明に守られる町 北鎌倉は、昔は上中下3つの町に分かれていたそうですが、それぞれの町に晴明の名を記したものが見られます。下町には晴明石、中町には浄智寺先の踏切そばの碑、上町には建長寺の手前にある第六天社の碑です。安倍晴明に守られた北鎌倉、なんとも羨ましい町です。
前回訪ねた「おちゃぶきさま」は、北鎌倉駅前の交番の脇を入った所にありました。今回は、その先の山中稲荷社、十王堂橋、光照寺の「おしゃぶきさま」を訪ねます。
「おちゃぶきさま」の路地はすぐ先で丁字路になります。そこを左に行くと山中稲荷社は目と鼻の間です。ここから稲荷社の裏に回り、梶原に通じる道に出て右へ行くと、バス道路に出ます。十王堂橋はその左手にあります。橋と言っても欄干が片方にしかないので見落とさないよう注意して下さい。最後に訪ねる「おしゃぶきさま」は、十王堂橋の先にある信号を左に曲った光照寺にあります。
*山中稲荷のエネルギー
山中稲荷社は、静かなお屋敷町の中にありますが、神社の発するパワーは強力なようです。大根会の中でも特に霊感のある人は、鳥居の手前から凄いエネルギーだねと頷き合っています。大根師が、社殿の左前と右のスダジイの古木を指さします。社の前では姿勢のぐらつく人がいます。体が前に引っ張られるといいます。シイの木に手を当てて汗ばむ人がいます。足元から熱が上ってくるというのです。終ると皆すがすがしい顔で木の根元から下りてきます。鈍感な者には羨ましく、また信じがたい現象です。大根師は「社殿よりスダジイの方がパワーが強い。昔は社殿は木の位置にあったのでは」といいます。
この辺は古く藤源治と呼ばれていました。刀鍛冶の藤源治正真(助真とも)が住んでいたことに由来するそうです。山中稲荷は、その屋敷神だったのでしょう。
*一遍聖絵から
十王堂橋付近の風景は、鎌倉時代の絵巻物「一遍聖絵」に描かれています。粗末な小屋や瓦葺きの建物などが並び、人の出入りを制限する関所の柵が道路にはみ出しています。一遍上人一行は、これを無視して進んだのですが、役人に阻まれ、やむなく片瀬へと向かったのでした。関所の近くには鎌倉の内と外の区切を示す結界石(お場石)や悪霊の侵入を防ぐ十王堂(閻魔堂)、晴明石などがあったようですが、絵巻からは判別できません。
晴明石は安倍晴明が祈りを込めたという石で、昭和20年代まで道路の真中にあったそうですが、今は山内の八雲神社に移してあります。石の埋まっていた所は大根師の見立てでは、橋から10㍍大船に寄った所だそうです。実はこの辺りで交通事故が頻発しています。晴明石が移されたことに結び付けるつもりはありませんが、安倍晴明師には、場所は離れましたが、無事故安全の祈りを込めてほしいと思います。
*「おしゃぶきさま」の前で
最後に訪ねる「おしゃぶきさま」は、光照寺の山門を潜った左手にあります。最近造り変えられた真新しい石の祠です。
光照寺は、一遍聖絵では関所の争いの次に描かれています。行く手を阻まれた一行が休息している場面です。一行は、ここで一晩野宿して片瀬海岸に向かったのです。光照寺は、こうした縁から時宗の霊跡寺院として開かれたのです。
「おしゃぶきさま」は、「おちゃぶきさま」同様に風邪引きの神様として信仰されていますが、いずれも関所の場所を示す結界石、御場石、お婆石、関石、咳石、風邪引きの石に通じるものでしょう。
風邪の流行期、大根会の皆さんも熱心に祠に手を合せていました。大根師が合掌する人たちに声をかけました。「祈る時は必ず名前と住所をいいましょう」と。
*気分爽快にするパワー
鎌倉の神社や寺、史跡を訪ねて地力のある場所を探し、そこから生きるパワーを体得しようという大根会に参加して、二年半になります。目的地に着くと、まず主宰のアースパワー・フィーラ大根弘行師が手を打ちながら音の微妙な変化を捉えてパワーのある場所を見つけ、そこから湧き立つ力を実感しようと交替でその場に立ちます。会員は敏感な人が多いのですが、半信半疑でその場を離れる人もいます。私などは鈍感な部類に入る人間なので空気の流れや匂いの変化を感じることはあるのですが、それは周りに感化された煽りによる変調かもしれません。
実際、パワーの位置に立って、姿勢を崩したり、倒れかかったりする人を見ると、別世界の出来事に見えます。また、爽快になった、頭痛が治ったなどと聞くと、羨ましいと思います。
*否定か肯定か!
私の感想に対して大根師はこう言われました。
「感じる感じないは、個人の資質でしょう。気にすることはありません。ただアースパワーとか地霊というものが存在することは確かです」
「それを否定するとどうなりますか」
「地霊や神との縁が遠くなります」
「信じないものは守られない?」
「それは当然あるでしょう。しかし、そうした力を徒に頼ると、脇が甘くなり、失敗することもあります。だから霊感が鋭いから良い、鈍いから悪いとは言えません。独立独歩の人が成功する例はよくありますよね」
*ミアレ
「ミアレ」という言葉があります。「御阿礼」、「御生れ」のことで、神は信じる人の前には現れるという意味です。京都の上賀茂、下鴨神社で行なわれる葵祭りと九州宗像神社の秋の祭りは「みあれ祭り」とも呼ばれます。神を本殿から他所に移して行なう神幸祭、渡御祭です。
1月4日の葛原岡神社の新年祭でも祭礼の場や参列者を清める儀礼の後、「オゥーオゥー」という声と共に本殿の扉が開かれます。身の引き締まる「御生れ」の瞬間です。こうして見ると、鎌倉は神霊のメッカです。年改まる毎に神は生れ、長い歴史を経て、人との感応を深めてきた神のいる町です。天地を貫く地力も豊かで、暮す人々を守っているのです。こうした見地からパワースポットめぐりを続けます。
*「おちゃぶきさま」は風邪の神
風邪の季節ですから、「おちゃぶきさま」を訪ねました。北鎌倉駅前の交番の脇を入り、右折して30mほど行った所にある石塔です。風化した鎌倉石を二、三個積んだ素朴なもので、風邪を引いたらお参りし、治ったらお礼にお茶を差し上げる神様です。
大根師は、石塔の前に立つと、心安らぐ神さまですね、大事にされているんですねと言われました。パワーの場所は、石塔の正面のようです。メンバーの一人が百円玉を置いて、場所を分かるようにしてくれます。地力を発する場所は5cmずれると、効果がないそうです。皆が拝礼している時、大根師は、石塔は広い所に祭って欲しいと訴えていると言われました。路地は向い、もっと広かったのかも知れません。
*咳の神は、関の神?
しりとりゲームのようですが、お付き合い下さい。風邪の神は咳の神、咳の神は関所の石塔?そういえば北鎌倉は関所の町でした。民俗学者の柳田國男は、関所には結界を示す石が置かれ、お場石と呼ばれ、それはお婆石に、次に閻魔王の奥さんの脱衣婆に変化したと著書に書いています。すると石塔は、バス通り沿いの十王堂橋の辺りにあったとも考えられます。
来月は、さらに進んで「おしゃぶきさま」を訪ねましょう。
*北条政村の娘
750年も前の話です。1260年(応永元年)冬、執権北条政村の家で事件が起こりました。政村の娘が、物の怪に取りつかれたのです。目をむき出し、舌を出し、体を震わせ、あらぬことを口走るのです。政村は、慌てて写経に取り組み、鶴岡八幡宮の僧侶に祈祷を頼みました。お陰で正気に戻ることができました。政村の娘を苦しめたのは、50年前に無念の死を遂げた讃岐局の怨霊でした。怨霊は大きな角をつけ、大蛇となって現れ、「われは比企ヶ谷の土中にあり」と告げて立ち去りました。
*比企氏の悲劇
讃岐局は、北条氏と覇を争った比企氏の娘で、源頼家に嫁いだ人です。子供にも恵まれ、三代目の将軍を約束された一幡君の母になりました。しかし、このまま事が進めば、北条氏は将軍家と縁遠くなり、権力の座も手放すことになります。そこで北条時政は、比企氏を襲ったのです。当主の比企能員は時政邸で誘殺され、比企ヶ谷の屋敷は火を掛けられ、讃岐局と一幡君は、炎の中で亡くなりました。
恨みを込めた比企ヶ谷は、永く人も近寄らぬ廃墟になっていましたが、讃岐局の騒ぎをきっかけに比企氏を供養する法華堂の地になりました。日蓮宗の大本山妙本寺は、この法華堂を前身として開かれたと思われます。
*袖塚のいぶかしさ
妙本寺の伝えによれば、寺が開かれた時、讃岐局の怨霊は日蓮上人により浄化されたと言われます。しかし、「比企氏滅亡の地」という偏見が邪魔するのでしょう。
祖師堂の前にある一幡君や讃岐局の墓に立つと、いつもひんやりしたものを感じます。
一幡君の墓は、カエデの巨木の陰に寂しげです。袖塚と呼ばれるのは、亡骸が見つからなかったので、燃え残りの小袖を納めたからです。
讃岐局の墓は、大きな銀杏の根方の薄暗い、じめじめした場所に立っています。いつもたくさんの塔婆が並んでいます。8百年の怨みは、まだ消えていないのではないか、いぶかしさを覚えます。
*妙本寺の明るさ
ところがアースパワー・フィーラ大根弘行師には、先入観はありません。杉やケヤキに覆われた参道はすがすがしいのですが、祖師堂の前庭に点在するお墓は暗さや悲劇に包まれているのに大根師の感想にそれを指摘する言葉はありません。
ここは比企氏滅亡という悲劇の現場だと説明しても、あまり反応を示しません。きっと悲しい歴史に関わるパワースポットがあるはずだと、半ば期待していたのに拍子抜けです。
*蛇苦止明神社のプラスパワー
そのわけは、蛇苦止明神社で分かりました。明神社は、参道の中ほどの道を右に入った奥にあります。讃岐局と一幡君が住んだ小御所も、ここにあったようですから、二人が最期を遂げた場所でもあるはずです。
ところが大根師は、明神社のすぐ下の石段でここから空気が変わるといって、下から三段目を指しました。言われたままに確かめると、山の冷気か、真の霊気かかすかな風を感じえました。何となく爽やかです。
境内には大蛇が潜んだ蛇形の井戸や讃岐局が入水した池があり、爽やかな雰囲気とは異なります。大根師は赤龍と白龍が激しく争った跡らしいが、今は社も信仰に支えられていい空気に包まれているのだろうと言われました。よき場所にはプラスのパワースポットがあるとも言われました。
社殿の左前と裏の対角線上の位置、大根会のメンバーは、そこに立って、入れ替わり、蛇苦止明神を祈りました。
*ビューポイントの裏側
鎌倉市小町の宝戒寺の裏に葛西ヶ谷があります。谷の名は、武蔵平氏ながら早くから頼朝に従った葛西清重の住いのあったことに由来します。
谷の入口には渓谷が流れ、アーチ橋が架かり、ビューポイントとして親しまれています。渓谷は滑川、橋は市の文化財でもある東勝寺橋です。
木々の彩りが豊かで、人力車で訪れる人が絶えません。ところが、美しい風景の裏に険あり。両岸切り立つ谷川は砦を守る堀割でもあります。橋を渡ると、先は急な坂道。これも敵に備えたものです。坂道を登ると、市の放置自転車の保管所があり、付近一帯は東勝寺の中心部といわれます。
*泰時の先見の明
本堂跡と思われる広場の背後には、襟を立てたように屏風山の崖が続き、前には川が帯状に流れています。こうした地形を「山河襟帯」といい、要害の地を意味します。
東勝寺は砦を兼ねた寺だったのです。こんな深謀遠慮の手を考えたのは執権北条泰時です。彼は子孫の百年後に備えて極楽寺坂に成就院、大船地区に常楽寺を開いています。西と北に出城、中央に本城を構える、先見の明ある人だったのですね。
*想定外の事情
しかし、泰時の見識をもってしても北条氏の運命を変えることはできませんでした。中国大陸では、モンゴル帝国が強大になり、鎌倉時代の中ごろには朝鮮をほぼ支配し、文永、弘安の2回、九州に攻め込んできました。
さぞ無念だったでしょう。北条氏は失政からではなく、元寇の役という予想外の事件によって滅んだのです。そのため一族を惜しむ声は少なくありません。
『太平記』は一族が命を絶った日、鎌倉府内6千余名があとを追ったと伝えています。江戸時代に書かれた『鎌倉攬勝考』も頼朝一族すら子供の代で終わったのに、北条氏は図らずも執権の座に就き150年もの栄華に浴した、実に立派で哀れなことだと記しています。
*空気が変わる
北条氏が滅亡した5月、アースパワー探索家・大根師のグループと一族の跡を訪ねました。「ここから空気が違うね」東勝寺橋を渡る時、大根師が声を上げました。確かに路地と違って橋の上は水音も吹く風もさわやかです。
でも、大根師の言う空気はその感覚とはちょっと違うようです。「神霊は、感応する人に現れる」といった奥深いもののようです。680年余前、ここでは千名近い武士が自害しました。橋上の空気と屏風山から下りてくる冷気は、ぐっと気分を引き締めます。
*やぐらに咲く花
坂を上るにつれ、心と体は重くなります。30㎏もの鎧を着け、敗走する武者に、この勾配は厳しいものだったでしょう。鎌倉最期の地は、昼なお独特の空気を湛えています。腹切りやぐらに近づくと、誰もが無言になります。大根師も一人祈り続け、言葉もありません。
しばらくして、小声で言われました。「武士の気配がします」
一族滅亡の直前、敵陣に攻め入った武士団がありました。見分けられないよう笠標を外し、新田義貞の目前に迫りましたが失敗しました。百人の内八人が東勝寺に生還、仲間に先駆け自害の手本を示したといいます。
『太平記』の一こまを思い出している時、大根師が指さしました。見ると、シャガの花が咲いていました。不思議なことに花の数は9つでした。
*宇都宮氏の歴史
若宮大路の二ノ鳥居から北へ百mほど行くと、右手に鎌倉彫会館とカトリック雪ノ下教会が路地を挟んで並んでいます。その裏手に小さな社が鎮座しています。社の辺りの路地を宇津宮辻子(ずし)といい、社を宇津宮稲荷社と呼んでいます。由緒は不明です。ただ、宇都宮氏がこの辺りに住んでいたとされ、社の名もこれに由来するようです。
宇都宮氏は、藤原氏を先祖とする下野国(栃木)の武士で、源頼朝に従って活躍しました。しかし、一族の歴史は、順風に恵まれませんでした。まず頼朝に仕えた初代朝綱は、和田義盛や畠山重忠と並ぶ地位にありましたが、下野の国司とのトラブルから土佐国に、孫の頼綱は豊後(大分)に、弟の朝綱は周防国(山口)に流されました。
さらに頼綱は、流罪から十数年後、将軍の後継者争いの事件に連座して、鎌倉から退去する羽目に陥りました。出家までして、無実を訴えたのですが、執権義時は、頼綱との面会も拒否しました。
傷心の頼綱は、京都に向かいました。すでに武家歌人「蓮生」として知られていましたから、藤原定家の山荘のある小倉山近くに居を構えました。
鎌倉が、京都、宇都宮と並ぶ三歌壇に数えられたのは頼綱の影響といえるでしょう。おかげで鎌倉には定家の子孫も多く訪れ武家歌人の指導に当たりました。しかし華やかな歌所の世界の裏では、主なき屋敷跡に残された稲荷社が侘しい歳月を繰り返していたのです。
いつはりのなき世の人のことのはを 空にしらするありあけの月
蓮生
*荒らぶる地霊
頼綱が去った後の鎌倉はめまぐるしく変わりました。比企、畠山、和田氏などの有力な御家人が次々滅ぼされ、源頼家と実朝が暗殺され、源氏将軍はわずか三代で終り、北条氏の時代へと進みました。一族の繁栄を築いた義時、政子も、病を得て亡くなりました。天下一新とばかり、大倉幕府は廃止され、宇津宮辻子に移されました。
場所の選定には陰陽師の意見を入れて決められましたがそれは都合よく宇都宮氏の跡地でもあったのでしょう。しかし、宇津宮辻子幕府の期間は十年余に過ぎません。調理場の竈が突然鳴り出す。御所の座敷に名の知れぬ黒鳥が集まる。地震が来る。将軍が病気になる。「土公(土地の神)祟りをなす」と判断し、幕府は鶴岡八幡宮に近い所へ移されました。陰陽師を以ってしても地霊を鎮めることができなかったのでしょう。
*小さな社の巨大な力
鎌倉彫会館と教会の間を行くと、数本のシイノキやサクラが茂った鎮守の森があります。路地と竹垣に囲まれた神社です。朱の鳥居と社殿、境内の手入れもよく、風情があります。宇津宮辻子幕府旧蹟の石碑も歴史を感じさせます。
アースパワーフィラ―大根秀行師と歩く会が訪ねたのは2月でした。大根師が柏手を打ち、鳥居の手前、社殿の左手前と横、裏側の4カ所のパワースポットを指摘しました。「掃除がされていて、雰囲気のいい神社だね」と大根師の感想。荒(あら)魂(たま)より穏やかな和魂(にぎたま)の社だと勝手に解釈して、参拝を済ませました。
*不思議なスナップ写真
ところが、今年4月怪奇な現象が起きました。宇津宮稲荷社の講中の人たちが、花見をした時です。その様子をカメラに納めた中に昇龍の姿が写ったのです。
大根師の判断では、心配はご無用!逆に喜ぶべきスナップだそうです。龍は神の乗物、写真には中心的な一つだけが写っているが、実は無数の神が、講中の人々の日ごろの善業と花見の歓びを報告するために昇っていく姿だというのです。感動的で不思議な写真です。
*お参りの作法
前回紹介した扇ガ谷の要山(かなめやま)の力は、歴史や地形など沢山の要素が重なった所から涌き出てきたものと思われます。これとは対照的に佐助稲荷神社の場合は、重なる要素は少ないのですが、相当なパワーを感じさせます。アースパワーフィーラ大根弘行師に同行した人たちの多くが他の場所以上に驚きの声を上げました。
お参りの作法は、いつも大根師の指示に従って行ないます。まず、最初の鳥居を潜る時、左手前で一礼します。潜ってまた一礼、次に千本鳥居の林立する参道は狭いのですが、中央は神様の通る道として端を歩きます。参道を登り切ると、もう一度一礼、それから本殿に進み、中央を避けて、右か左に寄って二礼二拍一礼します。必ず住所、氏名を述べるようにとも言われています。
*俗界と霊界の差
同行者が参拝している間、大根師はパンパンと手を打ちながら、パワーの出ている場所を探り、わずかな音の違いを捉えます。佐助稲荷神社の場合は、本殿左の岩がスポットのようです。苔むした、いかにもそれらしい岩です。大根師が、拾った木の枝で×印を作ると、メンバーが代わる代わる立ち、合掌したり、手をかざしたりします。
見よう見まねで立ってみました。手をかざすと温かくなったような気もしますが、未だ半信半疑です。「少し右へ移動した方がいい!」後ろから声がかかりました。パワースポットは数㌢で外れてしまうらしい。俗界と霊界の境は微妙です。しかし、位置を変結果は同じでした。
*プラスパワーとマイナスパワー
一方、メンバーには敏感な人が何人もいます。「熱を感じる!」とか、「すごい力に押される!」とか、ひそひそ言い交わしています。パワーの現れ方は、時により人により異なるようです。押される、引っ張られる、熱を感じる、匂いがする、風を感じる、迷いが吹っ切れる、心身の停滞が解消される。その逆もあり、気分が悪くなるなどパワーがいつもプラスに働くとは限らないようです。
大根師は、スポットから離れた所でも気の変化を捉えることがあります。参道を歩きながらここから空気が変わった。涼しくなったとか、さわやかになったとか言われます。しかし、霊気の匂いなどはいつもいいとは限りません。「ここの匂いはよくないね」路地を歩きながら突然言われたことがあります。鈍感な者にも匂いの変化は分かりました。「近くに粗末にされている神様がいるようだね」
*佐助稲荷神社の地霊
佐助稲荷神社の岩は、みんなに健康なパワーをくれたようです。鈍感なわが身も山の冷気を吸って爽快でした。この力は、神社が出来る前から涌き出ていたもののようです。
佐助山は水源の山。佐助、由比ガ浜の神体山でもありました。東へは佐助川となって佐助、由比ガ浜の農耕を支えました。「稲生り」→「稲荷」の神です。西は大谷戸川。下流で稲瀬川と合流し、坂ノ下の海を豊かにしました。大谷戸の道が「おぐりの道」といわれたのは、このためです。坂ノ下の漁師は、大谷戸を通って佐助稲荷神社に初穂を送り届けたのです。祭神は宇迦(うかの)御魂(みたま)(倉稲魂)。食を司る神で、今は工業、経済に及ぶ殖産興業の神です。
ところで、隣の葛原ヶ岡には、農業、知恵、財力の神を祭る銭洗弁財天宇賀福神社があります。名は違っても同根の水の神です。こうして見てくると、稲荷神社のパワーは、佐助と葛原、二つの山に込められた一途な祈りから湧き出てくるものと解釈できそうです。
*市内最強の山
アース・パワー探索家の大根弘行師が、鎌倉市内で最も強くパワーを感じたのは扇ガ谷だそうです。そこで大根会の人たちと訪ねました。
場所は、亀ヶ谷の切通下。薬王寺の向かいの山で、南西が垂直な崖になっており、崖下に諏訪社の祠が鎮座していました。パワーを発するのは、祠の直前、やや左に寄った所で、そこに立つ人の内、何人かは姿勢がふらつきました。霊感の鋭い人は、パワーに気後れして参道の途中で立ち止まるほどでした。大根師は、もっと強いパワーの発信源が左の畑、それも奥の岩石にあると指さしました。
*扇の要
山の名前は要山(かなめやま)。扇の要を意味する名です。確かに扇ガ谷は、要山を基点に勝因寺跡、海蔵寺、智岸寺跡などの谷へと、扇形に開いています。 また、山の名には山裾にある扇の井(個人宅にあるので見学不可)に由来する説もあり、静御前が山上で舞い、この時扇を落したという眉つば説まであります。
*将軍を守る山
要山は、鎌倉全域にとっても、重要な位置にあるようです。前に鎌倉は四神相応の町であると説明しましたが、占星術では、身分の高い人の住居の西には、武器庫を置くのを良とするとします。
京の都の場合、西に武器庫を意味する兵庫があり、六つの兜を格納する六甲山が連なっています。鎌倉の場合も、鶴岡八幡宮の背後に大臣山(大倉)があり、西に鶯山、浄光明寺の山、要山、源氏山が続き、将軍御所を守護する役を担っています。
「新編鎌倉志」は「西に高き山は武曲(むごく)星(せい)に相当る。其名を武山…。また西に山あり。武庫と号す。亀谷の山也。…此等の山に悉く倉庫の名あり。…武将居を成さんに於ては吉慶あるべし」と記しています。武曲星は勇気、豪毅を示す星です。要山のパワーはここに発しているのかもしれません。
*八雲の神の集う山
しかし、大根師は要山に宿る力は八雲神社とも関連すると言われます。八雲神社は市内に四社、大町、西御門、北鎌倉、常盤にあります。四社を線で結ぶと不思議にも要山で交差します。祭神は、仏教では祇園精舎を守る牛頭(ごず)天王(てんのう)、薬師如来の化身とも解釈されます。
神道では粗暴な素戔鳴(すさのおの)尊(みこと)ですが、後に温和な農業神に変わり、今は厄除けの社として信仰されています。
*妖僧の霊力?
要山のパワーの源泉は、他にも考えられます。隣接する畑地は勝因寺跡といわれます。南北朝時代に開かれ、間もなく消えたはかない寺ですが、開山は妖術に長けた志一上人です。「太平記」に登場し、足利将軍を呪詛したり、狐を使って一晩で九州から鎌倉まで書類を届けさせたりした僧侶です。上人ゆかりの神社は、勝因寺跡とは背中合わせの鶯山にあります。志一稲荷社です。背筋のひんやりする偶然です。
*粗末にできぬ鎌倉
要山の辺りには、湯脈が通じているようです。畑を過ぎ、切通の手前に来ると、右奥に鳥居が見えます。扇ヶ谷村の古絵図には坂中天神、「新編鎌倉志」には霊梅堂とある社で、今は霊梅社と呼ばれています。ここに近年まで銭湯がありました。
また、切通の中ほどのマンションも、30年前までは香風園という鉱泉旅館で、頼朝の隠し湯があることで知られていました。さらに上ると、左に墓地があり、ここには建長寺の修行僧のための療養所があったといいます。湯治の施設もあったのではないでしょうか。
このように要山のパワーの根源は、いろいろ考えられます。鎌倉には、疎かにできない所がまだまだありそうです。
*平安京は四神の守る地
前回は、鎌倉が頼朝の時代から現在まで繁栄し続けることができたわけを歴史の面から考えてみました。今回は中国から伝わった風水思想から眺めてみましょう。
風水とは、国語辞典には「陰陽家の術の一つで、風土や水勢を見て、住居・埋葬の地を選び定めるもの」とあります。日本は早くからこの影響を受け、暮しの中に取り入れてきました。鎌倉武士も例外ではありません。
桓武天皇も京に都を移す時、役人にその地相を調べさせました。調査官は、「京都は左を青龍、右を白虎、前を朱雀、後を玄武が守る四神相応の地。帝都を定めるに最適」と報告しました。「平家物語巻五・都遷」にある話です。こうして平安京は生れ、四百年近く繁栄したのでした。
*鎌倉も風水の町
鎌倉でも大倉御所を若宮大路(大佛次郎邸付近)に移す時、七人の陰陽師に地相を調べさせました。執権北条泰時の命令です。調べた結果、陰陽師は「若宮大路は四神相応の勝地です。西に大道南行し、東に河あり。北に鶴岳あり。南は海水を湛えている。この地を用いるべき(吾妻鏡・嘉禄元年十月廿日)」と答申しました。
四神は、東に川、西に道、南に平野や湖、北に山が聳える地を選んで、守護するといいます。そういえば鶴岡八幡宮も鎌倉の町全体も、こうした地形です。事実、西に由比ヶ浜に沿って古東道が走り、東に滑川が流れ、北に大臣山がそびえ、南は相模湾に広がっています。
*四神を招く工夫一
南が開けて陽光が注ぎ、北に山を背負い、寒風を防ぐ。こういう土地なら風水を抜きにしても、すぐにも住みたいと思います。しかし、縁起も、居住性もいい土地など、容易に手に入るものではありません。そこで工夫がされたのです。
禅宗の大寺、建長寺を訪ねてみましょう。境内に入ると禅宗様式の山門、仏殿などが並んでいます。どれも南西に向いています。「天子は南面し、臣下に対する」という中国文化を基準にした寺なのに意外です。境内が南から北へ深く切り込んだ谷を造成した所なのでやむを得なかったのでしょう。
ところが、仏殿の前に一対の灯籠があり、ここに工夫が見られます。灯りを入れる火袋の下の中台という部分に四神像が描かれています。キトラ古墳の壁画に似た朱雀が正面に、玄武が裏に、左右に青龍、白虎が見られます。
これで建長寺を南面させているのです。
*四神を招く工夫二
この他、シンボルツリーを要所に植えることで四神相応の地にする工夫もされます。四神の木は、東は柳、西は楸(ひさぎ)と梅、南は木犀(もくせい)と桐、北は檜(ひのき)と槐(えんじゅ)です。
鶴岡八幡宮には、源平池の畔に柳の巨木が並んでいます。方角から見て、四神の木と思われます。
また石段の左には槐があります。玄武の木と思われますが、槐は中納言の木でもあるので、源実朝を象徴しているのかも知れません。旧美術館の裏にも楸がありますが、現在は工事中のため近づくことはできません。
*不死鳥の町
鎌倉は、時代が急変し、状況が悪くなっても、不死鳥のように蘇えり、歴史を紡いできた町です。不死鳥は西洋の霊鳥ですが、仏教にも再生、再来を約束する仏「弥勒菩薩」がいます。
この近くでは、金沢文庫称名寺の本尊が有名ですが、鎌倉にも浄智寺で拝することができます。本堂に参ると、釈迦如来を中央に、左に阿弥陀如来、右に弥勒菩薩の三世仏が座っています。釈迦は現在、阿弥陀は過去、弥勒は未来を導く仏といわれます。
ただ、弥勒菩薩は釈迦入滅から数えて、五十六億七千万年待たないと現れないそうです。
*東国の主都
ところが鎌倉では、時代の変わる度に救世主が現れました。例えば元弘3年(1333)、新田義貞の軍勢によって幕府が倒されると、足利尊氏が現れ、京都に室町幕府を開き、鎌倉に公方を置いて、東国の都にしました。
しかし、それも百年で幕を閉じ、有力者のいない、商人や職人もまばらな活気のない町になってしまいました。この時代に長谷の大仏殿は津波に流され、国宝大仏は露座になってしまったのです。再建する力が、鎌倉にはなかったのです。
*早雲の復興
大仏殿が流されたのは明応4年(1495)頃とされますが、戦国時代の雄北条早雲が、箱根を越え、小田原に現れたのもこの年です。歴史舞台に次の役者が登場したのです。破竹の勢いで勝ち進んだ早雲は、永正九年(1512)玉縄城を築き、その工事中、鶴岡八幡宮を詣で、鎌倉再建を誓いました。
枯るる樹にまた花の木を植ゑ添へて
もとの都に成してこそ見め 早雲
早雲の遺志は、長男の氏綱に受け継がれ、天文9年(1540)実現しました。若宮大路修復、大鳥居再建を経て、上下宮の落慶まで、20余年をかけた大事業でした。
*家康公の故郷
しかし、後北条氏の時代も百年足らず、豊臣秀吉の前に亡びました。次に鎌倉を救ったのは、徳川家康です。秀吉に従って小田原城を攻略した家康は、関東を手にすると、鎌倉には特別な計らいをしました。
源氏の血筋であることを広く認めさせようと、自分は源頼朝の子孫である、だから鎌倉は先祖の地であると主張し、税を軽くしたりしました。鶴岡八幡宮の修復、英勝寺の創建、東慶寺の復活などは、徳川家の支援によって、実現したものです。
家康は鎌倉に学ぶことにも熱心で、「吾妻鏡」を愛読し、木版本まで作らせました。孫の水戸光圀が、「新編鎌倉志」を著したのも、その感化によるものでしょう。鎌倉は、政権とは無縁になりましたが、名所旧跡の地として蘇ったのです。
*別荘地から国際観光都市へ
明治に入ると、鎌倉は海山に恵まれた保養地として注目され、別荘地、文士の町として賑わいました。第二次大戦後は、歴史や史蹟の豊かな観光都市、さらに近年は国際観光都市として活気に満ちています。こうして見ると、鎌倉は町全体が地霊の宿るパワースポットであることが分かります。
ただ、この不死鳥、これからどこに飛んでいくでしょうか。
*大根さんのこと
ある会合で史跡や神社を巡りながら、土地の持つパワーを探る会―大根会の存在を知りました。会の指導者は大根弘行さん。建築関係の会社を経営しながら、アースパワー・フィーラの肩書もお持ちの方とか…。カイゼル髭のよく似合う方です。こちらは何事にも感受能力の低い人間です。地霊など分かるはずもないのですが、それはそれとして、仲間に入れてもらいました。
*人丸屋敷跡
去年、小町から二階堂の辺りを歩きました。鎌倉駅を出て、小町通りに面した聖ミカエル教会の裏に来た時、大根師の足が止まりました。人丸姫の屋敷跡といわれる辺りです。人丸は、源頼朝と堂々と渡り合った平家の武将上総景清の娘です。大根師は、手を打ちながら周りを探った後、地面に印をつけました。会員が順番にその場に立ち、合掌したり地に手をかざしたり、思い思い何かを感じようと努めます。姿勢がぐらつく人、掌に熱を感じるという人、何も感じなかったという人、反応も区々です。
景清は平家滅亡後も、頼朝の命を狙い、ついに捕われ、獄死した人物。人丸は、父を助けようと九州から駆け付けましたが、願い空しく、父を失い、一人鎌倉で生涯を終えたといいます。鋭く反応する人を見ていると、人丸の怨念が、そこに籠っているのではという気持になりました。
*魔の淵
次に鎌倉宮近くにある「魔の淵」に向かいました。岐れ路から百mほど行った小さな空き地です。そこに石の地蔵が座っています。「魔の淵」は二階堂の小字ですが、来歴はほとんど不明です。地蔵の脇に小さな流れがあります。昔、ここは池だったといわれます。「淵」は川の淵、池の淵、どちらとも解釈できそうです。
鎌倉市の教育委員会が編集した「かまくら子ども風土記」には、「昔、魔物が住み、人を餌食にした縁起の悪い所だ。作物は出来ず、耕作すれば怪我をし、病気して死ぬ。また古代、役人として鎌倉に赴任した染谷時忠の娘が、鷲にさらわれ、その血が落ちた所でもある。大正時代、宝戒寺の住職が地蔵を安置してくれたので、無気味な話は聞かなくなった」とあります。場所は大倉幕府の東の境に当るので、度々戦場になり、悪所になったのかも知れません。
*燃えない線香
大根師が、魔の淵のパワーを探りながら、驚くべきことを言われました。「ここには強烈なパワーがある。今も沢山の霊がが苦しんでいる。供養しなくてはいけない」
翌日、会の役員が花と線香を供えに行ったそうです。ところが晴れて湿気もない日なのに、線香が燃えていかない。煙は立っても、短くならないというのです。普通、線香の長さは十三、四㎝、二、三十分で燃え尽きます。線香を上げた方は、火が消えるまで二時間、その場を離れることが出来なかったそうです。これに対して大根師が言われました。「沢山の霊が、飢えたように線香の煙に集ったのでしょう。でも、最後はみな花を手に、煙とともに上っていったはずですよ」。(次回につづく)
はじめに
鎌倉は、富士や箱根の火山活動が続いていた頃から、人が住み、歴史を刻んできた町です。気候温暖、海山にも恵まれています。今やそれが資源となって、鎌倉を観光の町に仕立てています。
鎌倉観光のメニューは、実に豊富です。寺や社に始まり、建物、仏像、絵画、文学、切通しなどの考古遺跡、草花、巨木など…。近頃は、路地、ショッピング、グルメの町としても人気です。鎌倉を訪れる人々は、それぞれにテーマを持って楽しんでいるようです。
これに新たなメニューを加えようというのが、このシリーズのねらいです。新メニューとは、今流行り言葉を借りれば「パワースポット」。
しかし、これにも二種類あるようです。一つは、歴史が生んだ風景や空気、いわば雰囲気といったものから来るパワー。歴史などを知って初めて感じるパワー。ひとまず「知的パワースポット」としておきましょう。
今宮神社の空気
例を挙げてみましょう。鶴岡八幡宮の北に「今宮」と呼ばれる社があります。駐車場と鶴岡文庫の間を入った道の奥です。「新宮」とも書き、鶴岡八幡宮の末社の一つです。祭神は承久の乱に敗れ、それぞれ隠岐、佐渡、土佐に流され、現地で亡くなられた後鳥羽、順徳、土御門の三天皇です。
承久の乱は、源実朝が暗殺された事件を機に京方が倒幕の兵を挙げた戦ですが、脆くも敗れ、名実ともに京・鎌倉の立場が逆転した戦いです。天皇の恨みは尽きず、殊に倒幕の中心だった後鳥羽天皇は、死後、怨霊と化したといわれます。
鎌倉幕府が記した「吾妻鏡」には、後鳥羽天皇が崩御された翌月、鎌倉の空に長さ三mの光の帯が飛び、京都討伐の大将だった北条泰時が病に倒れたとあります。断食の上、頭に焼石を乗せ、自ら命を絶たれた順徳天皇の怨霊も、加わったかもしれません。
今宮神社は、三天皇の鎮魂のため創建されました。宝治元年(一二四七)四月でした。この直前にも、羽蟻が乱舞し、黄蝶が群れ飛び、由比ヶ浜の水が血のごとく染まり、鎌倉中が大騒ぎしたと、これも「吾妻鏡」が伝えています。
天狗堂の森
今も社を包む空気は独特です。水戸光圀が編纂した「新編鎌倉誌」にも、「…社の後ろは深谷也。一根にして六本に分れたる大杉あり。魔境にて、天狗此に住む」とあります。天狗の魔境は、「太平記」に護良親王と側近の霊が天狗となり、仁和寺の六本杉に集い、足利直義を亡ぼす相談をしたという場面とそっくりです。歴史や文学を通して見ると、史跡や遺跡の発するパワーは強まります。
もう一つのパワースポットは、霊的なものです。こちらは理屈をこねても始まりません。まずは体験から入ることにしましょう。幸い導き役に、「アースパワー・フィーラ・オオネ」こと、大根弘行師がおられます。宇宙、天地に通じるエネルギー、すなわち「気」を求めて活躍している方です。
次回は、ミスター大根師と一緒に鎌倉の不思議めぐりに出かけましょう。
大貫昭彦 プロフィール
1938年横浜生まれ。國學院大学文学部卒業後、教職につく。現在は鎌倉の花木、歴史、史跡、文学などを解説する著述、カルチャースクールや寺社めぐりの講師などの活動を精力的にしている。
1938年(昭和13年)横浜市出身
1961年(昭和36年)3月国学院大学文学部卒
現在 NPO鎌倉を愛する会会長、同鎌倉考古学研究所理事他
NHK、朝日などの各種カルチャースクール講師
平成25年~ 鎌倉検定講習会講師
昭和36年4月 高木女子商業高等学校勤務
昭和38年4月 錦城商業高等学校勤務
昭和39年4月 横浜市立寛政中学校勤務
昭和48年4月 横浜市立鶴見中学校勤務
昭和59年3月 同 退職
著書執筆の傍ら、歴史ガイド案内
NHK、朝日などの各種カルチャースクール講師
鎌倉検定講習会講師
昭和44年(1969)「鎌倉・花あるき」真珠書院
昭和47年(1972)「鎌倉の花」真珠書院
昭和53年(1978)改訂「鎌倉の花」真珠書院
昭和56年(1981)「鎌倉の石仏」真珠書院
昭和60年(1985)「相模野・相模路」真珠書院
昭和61年(1986)「かまくらの花」日蓮宗新聞社
平成 3年 (1991)「鎌倉あるき」真珠書院
平成15年(2003)「鎌倉12ヶ月の花歩き」実業之日本社
平成17年(2005)「鎌倉・もののふと伝説の道をあるく」実業之日本社
平成18年(2006)「鎌倉古建築散歩」湘南リビング新聞社
平成20年(2008)「鎌倉・歴史とふしぎを歩く」実業之日本社
平成22年(2010)「鎌倉・路地小路かくれ道」実業之日本社
平成24年(2012)「鎌倉12ヶ月の花歩き改訂版」実業之日本社
平成28年(2016)共著「鎌倉入門」 かまくら春秋社
平成29年(2017)月刊誌「鎌倉朝日」に「鎌倉の不思議を歩く」連載中
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